0:プロローグ この学園には『天使』が住んでいるという。 そよぐ風に気持ち良さそうに目を細めながら、彼はゆったりと寛いでいた。 鋭角に突き出した屋根の上で、掲げられた十字架を背凭れにして、僅かに平らな部分に腰をかけてい る様は、傍から見なくともひどく安全性に欠けていた。そんな不安定な場所で、彼はそんな事など気 にせずに暖かな光を感じながらうとうととまどろんでいる。 かなりの高さであるその建物―――しかも学園の中枢を担う礼拝堂の上に座り込むなどという所業を、 しかしその下にいる教師はおろか生徒達ひとりとして気付かず、ゆえに彼の所業を咎める者もいなけ れば危なげに座る彼に緊迫した視線を送る者もいなかった。 ―――否、それどころかだれ一人として彼の存在に気付いていないのだ。 そして彼もそんな事には気にも留めず、彼は気持ち良さそうな寝息を立てる。 が、彼はぴくりと苦しそうに眉根を寄せ、忌々しげに目を開いた。 苛立たしげに低くうめいて立ち上がり、彼は目も眩むような高さをものとせず、ごく軽い動作で屋根 の上から飛び降りた。 柔らかな羽根のようにふわりと降り、彼はそれと同じくらい身軽な動きで走り出す。 突然の突風に見舞われ辺りの者はそれぞれ髪を、教科書を、スカートの襞を押さえて目を瞑った。 それと共にふっと会話の波が途切れ、辺りはしんと静まり返る。 だがそれはほんの刹那のことで、すぐにまた会話と喧騒の波が押し寄せ静寂をかき消していった。 波にさらわれた貝殻の如く、誰もがその一瞬を日常の渦に埋没させ、やがて誰もが忘れゆく。 そうして、彼の存在に誰一人として気付かないまま、彼等は平穏な日常を繰り返していくのだった。 『天使』は誰かであり、誰でもなく、ただこの学園に存在している。 気紛れに生徒達に混じりながら、ある一つの使命の為に。 それ故誰もが彼の存在を知っていながら、誰もが気付かぬフリをして彼の事を忘れようとする。 俗に言う『天使が通った』時の刹那の静寂は、この学園にとって何よりも恐れるべきものとして知ら ぬものは無く、それ故に誰もがその静寂を恐れ口を噤む。 誰もが知っている。この静寂が意味するものを。 そして、誰もが恐れる。その時そばを通り過ぎたであろう『天使』を、しかし気付かぬフリをして。 そうして再び日常が訪れた時、誰もが安堵の表情を浮かべて胸中でこう囁くのだ。 ―――選ばれなくて良かった、と。 カンパネルラ01〜ナマエノ森@〜より一部抜粋